長崎・平和祈念像のモデルは誰?肉体と顔の真相・ポーズの秘密を徹底解剖
長崎市平和公園の中心に鎮座し、訪れる人々を圧倒する青銅の巨像「平和祈念像」。天を指す右手、水平に広げられた左手、そしてギリシャ彫刻を彷彿とさせる逞しい肉体と、静かに瞑想する東洋的な顔立ち――。原爆投下の惨禍から立ち上がった長崎のシンボルとして世界中に知られるこの像ですが、ネット上や歴史ファンの間では「あの筋骨隆々な肉体には実在のモデルがいたのか」「顔のモデルとなった特定の人物は存在するのか」という疑問が長年にわたり語り継がれています。
彫刻界の巨匠・北村西望が心血を注ぎ、1955年(昭和30年)に完成させたこの記念碑には、単なる記念モニュメントにとどまらない緻密な計算と、深い祈りの哲学が込められています。本稿では、当時の制作記録、北村西望自身の残した手記や証言、関係者の記録を徹底的に検証し、実在モデルをめぐる真相と、名作に隠された知られざる制作秘話を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:肉体モデルの最有力候補は元プロ野球選手の吉田廣一氏だが、実際は複数の屈強なスポーツ選手の肉体を組み合わせて理想化された造形である。
- 要点2:顔には特定の個人モデルは存在せず、「神の愛」と「仏の慈悲」を融合させた人種・宗教を超越した究極の平和の象徴として造形された。
- 要点3:右手は「原爆の脅威」、左手は「平和」、瞑想する瞳は「犠牲者への追悼」を意味し、静と動が共存する緻密な造形美が戦後復興の強固な意志を物語っている。
【モデルの真相】肉体は実在の怪腕投手?吉田廣一説と複数モデルの真実
平和祈念像の前に立ったとき、誰もが目を奪われるのが、彫深く割れた腹筋や太くたくましい上腕、隆起した大腿四頭筋です。この圧倒的な肉体美のモデルとして歴史に名を残しているのが、戦後に南海ホークスや西鉄ライオンズで投手として活躍した吉田廣一(よしだ こういち)氏です。
吉田氏は日本大学相撲部および野球部出身で、身長180cmを超える当時としては並外れた恵まれた体躯の持ち主でした。北村西望が平和祈念像の原型を制作していた東京・武蔵野市(井の頭恩賜公園内)のアトリエに日参し、像のポーズをとってモデルを務めたという記録や関係者の証言が残されています。当時の関係者や親族の手記によると、重力に逆らって右手を高々と掲げ、左足を伸ばす過酷なポーズを何時間も維持し、筋肉の隆起を彫刻家に観察させ続けたとされています。
しかし、美術解剖学的な記録を紐解くと、「モデルは吉田廣一氏ただ一人ではない」という事実が浮かび上がります。北村西望は完璧な「究極の力強さ」を具現化するため、吉田氏のほかにも柔道家、体操選手、大相撲力士など、複数の逞しい若者たちをアトリエに招き、各部位のデッサンを重ねていました。胸筋の厚み、背筋の立体感、足腰の粘り強い張りなど、それぞれの肉体が持つ最高のパーツを統合・昇華させたのが、あの平和祈念像の肉体だったのです。
【顔のモデルの謎】神仏融合の表情に込められた北村西望の哲学
逞しい西洋彫刻のような肉体とは対照的に、平和祈念像の顔立ちは穏やかで、どこか東洋の仏像を想起させる神秘的な静寂を湛えています。「顔にも特定のモデルがいるのではないか」「西洋人と日本人の混血モデルが存在したのではないか」という俗説も囁かれましたが、真相は全く異なります。
北村西望自著『一筋の道』をはじめとする制作手記によれば、顔には意図して特定のモデルを一切置かなかったことが明記されています。その理由は、この像が特定の国籍、人種、あるいは特定の宗教(キリスト教や仏教など)に偏ることを厳格に避けるためでした。
長崎は古くからのキリスト教文化が息づく地でありながら、被爆したのは多様な信仰やバックグラウンドを持つ市民たちでした。西望は、西洋的な「全能の神の愛」と、東洋的な「仏の慈悲・涅槃の境地」を一体化させるという前人未到の造形に挑んだのです。鼻筋の通ったギリシャ彫刻風の骨格に、東洋の阿弥陀如来や弥勒菩薩のような慈愛に満ちた瞼のラインを融合させることで、人類共通の祈りを体現する「無国籍かつ絶対的な慈愛の顔」が生み出されました。
【スペック比較】平和祈念像の基本構造と制作データの全貌
平和祈念像がいかに異例の規模と執念で建立されたかを示す、主要スペックおよび制作データをまとめました。
| 項目 | 詳細・公式データ | 制作当時の標準・比較 | 美術的・歴史的意義 |
|---|---|---|---|
| 像高 / 総重量 | 像高約9.7m(台座含め約13.6m)/ 約30トン | 国内野外ブロンズ坐像として最大級 | 鎌倉大仏(約11.3m)に迫る巨大青銅構造物 |
| 制作者 | 北村西望(文化勲章受章彫刻家) | 長崎県出身(南高来郡南有馬村) | 郷土の復興と世界平和へ無報酬に近い覚悟で着手 |
| 制作期間 / 建立年 | 1951年〜1955年(約4年間の実制作) | 原爆投下10周年に合わせて完成 | 1955年8月8日に除幕式を挙行 |
| 総事業費 / 財源 | 約3,000万円(当時) | 公費だけでなく国内外からの善意の寄付 | 世界中から平和を願う市民の募金が集結 |
| モデルの構成 | 肉体:吉田廣一氏ほか複数アスリート 顔:特定モデルなし(神仏習合) | 通常の記念肖像彫刻(単一モデル)と異なる | 人種・宗教を超越した「人類共通のシンボル」 |

【ポーズの意味を解読】天を指す右手と水平の左手が語るメッセージ
平和祈念像の独特なアシンメトリー(左右非対称)の構図には、視覚的な美しさだけでなく、作者・北村西望が意図した極めて論理的かつ情熱的なメッセージが込められています。西望が自ら刻んだ解説文や公式記録に基づき、その意味を分解します。
【天を指す右手:原爆の脅威と惨禍の記憶】
垂直に天高く突き上げられた右手の人差し指は、上空から投下された原子爆弾の凄まじい破壊力と脅威を象徴しています。「二度とこの空から悲劇を繰り返してはならない」という人類への警告と、過去の惨禍を決して風化させない決意が込められています。
【水平に伸ばされた左手:至上の平和と安寧】
手のひらを下に向け、水平に緩やかに伸ばされた左手は、清らかな水面のように平穏な世界平和を象徴しています。激しい怒りや恐怖を鎮め、すべての人々に安らぎと平穏をもたらす救済のジェスチャーです。
【軽く閉じた瞼:犠牲者の冥福を祈る瞑想】
目を完全に見開くのではなく、半眼(静かに伏せられた目)の状態で深く瞑想している表情は、あの日一瞬にして命を奪われた数万の原爆犠牲者の御霊(みたま)に対し、永遠の安らぎを祈る深い鎮魂を表しています。
【折り曲げた右足と伸ばした左足:静と動の共存】
あぐらをかくように折り曲げられた右足は「瞑想と静寂(静)」を、地面を踏みしめるように前へと投げ出された左足は「いざという時に立ち上がり、平和を守り抜く意志と救済活動(動)」を表しています。祈るだけでなく、自らの力で未来を切り拓く力強さがここに宿っています。
【制作秘話と建立経緯】井の頭公園のアトリエで生まれた30トンの奇跡
平和祈念像の制作は、技術的にも資金的にも困難を極めた大プロジェクトでした。当時、長崎市にはこれほど巨大な彫刻を制作・鋳造できる施設が存在しなかったため、北村西望は東京都武蔵野市の井の頭恩賜公園内に特設のアトリエ(現在の井の頭自然文化園内・彫刻館周辺)を建設し、作業を開始しました。
制作過程では、まず小さな雛形(マケット)を作り、それを2倍、4倍と段階的に拡大していく手法が採られました。最終的な石膏原型は高さ10メートル近くに達し、西望は高所恐怖症と戦いながら足場を組み、自らノミとヘラを握って細部を削り出しました。当時70歳近かった西望の鬼気迫る創作姿勢は、周囲の弟子たちを驚嘆させたといいます。
さらに、完成した巨大な石膏像を青銅像として鋳造する工程も前代未聞でした。像全体を数十のパーツに分割して鋳造し、それらを船と貨物列車で長崎の現地へと輸送。丘の上にある平和公園の台座の上で、熟練の職人たちが溶接・組み立て・研磨を行い、継ぎ目を一切見せない完璧な一体像へと仕上げたのです。国内外から寄せられた約3000万円の寄付金と、何百人もの職人たちの執念が結実した瞬間でした。

【美術・社会学的分析】なぜ平和祈念像は筋肉質な男性像でなければならなかったのか?
世界の戦争モニュメントを見渡すと、平和や追悼のシンボルには「嘆き悲しむ母子像」や「傷ついた兵士」「翼を持つ女性の天使」などが選ばれるケースが多々あります。ではなぜ、長崎の平和祈念像はこれほどまでに力強く、威厳に満ちた巨人の男性像でなければならなかったのでしょうか。
戦後日本の復興期における社会心理と、北村西望の彫刻哲学からその理由を紐解くことができます。
当時、原爆によって焦土と化した長崎が必要としていたのは、単なる「悲愴感や敗北感の追認」ではなく、「絶望の淵から立ち上がり、未来を生き抜くための圧倒的な生命力と希望」でした。西望は、弱々しい受難者としての姿ではなく、悪を打ち砕き、平和を自らの力で維持する「絶対的な強さ」を具現化しようとしたのです。
社会学的な見地からも、この逞しい肉体表現は「悲劇を乗り越える復興の活力(レジリエンス)」を視覚化したものと評価されています。悲しみに暮れるだけの慰霊碑を超えて、人類が核兵器の脅威に打ち勝つための強靭な意志を示す象徴として、あの筋骨隆々な肉体は必然の選択だったのです。
【平和 祈念 像 モデル】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:平和祈念像の肉体モデルとなった吉田廣一氏はその後どうなったのですか?
A1:吉田廣一氏は日本大学を卒業後、プロ野球界入りし南海ホークスや西鉄ライオンズで投手として活躍しました。現役引退後は指導者としても活動しましたが、1967年に46歳の若さで亡くなっています。彼が遺した強靭な肉体の面影は、今も平和祈念像の中に永遠に生き続けています。
Q2:平和祈念像の顔のモデルが「外国人」だという噂は本当ですか?
A2:公式には特定の外国人モデルは存在しません。鼻梁が高く彫りの深い顔立ちから西洋人を連想させますが、これはギリシャ彫刻の理想美(西洋の愛)と仏教彫刻の瞑想美(東洋の慈悲)を北村西望が融合させた結果であり、人種や国境を超越した普遍的な存在として創作されたものです。
Q3:像が青緑色をしているのは最初からですか?
A3:平和祈念像は青銅(ブロンズ)で作られており、完成当初は暗い銅色に近い風合いでした。歳月を経て空気中の酸素や雨風に触れることで表面に酸化被膜(緑青=ろくしょう)が形成され、現在のような風格ある青緑色へと変化しました。定期的な保存修復・清掃作業によって、その美しい外観が維持されています。
まとめ:祈りと復興のモニュメントが未来へ伝える普遍の誓い
長崎の平和祈念像にまつわるモデルの真実は、「元プロ野球選手・吉田廣一氏をはじめとする複数のアスリートたちの逞しい肉体」と、「神と仏の慈愛を昇華させた、特定モデルを持たない超越的な顔立ち」の融合でした。
原爆の脅威を示す天を指す右手、安寧を祈る水平の左手、そして犠牲者を悼む半眼の瞳――。北村西望がその肉体美に込めたのは、惨禍への告発だけでなく、荒廃から立ち上がった人類の無限の強さと未来への希望でした。実在のモデルたちの躍動感と作家の不屈の情熱が刻まれたこの像は、被爆の記憶を風化させることなく、これからも世界へ向けて平和への誓いを静かに、力強く発信し続けます。 (出典: 平和 祈念 像 モデル(Yahoo!ニュース))